江戸城外濠は幕府が諸藩の大名に築城に伴う工事をさせる「天下普請」によって築かれました。江戸の防御のために惣構えを築いたのです。
外濠は円環ではなくひらがなの「の」の字のような螺旋状の形状になっていて、川・濠・池をあわせて外濠になっていました。その総延長は約15kmに及びます。
外濠の多くは明治政府による都市化・関東大震災・太平洋戦争の空襲・戦災の瓦礫処理という様々な災難に見舞われて多くを失いました。
よって外濠の門や濠は消滅したものや、一部石垣が残っているケースがほとんどです。街中にポツンと取り残され、忙しいサラリーマンはただ通り過ぎていきます。
そんな自分もそんなサラリーマンのひとりでした。この東京の原型は江戸の頃の壮大な街づくりによって作られました。とてつもなく巨大の工事です。そんな江戸の頃はどんな雰囲気だったのだろうと江戸の情景を想像し、外濠を巡ってみました。
「400年前の江戸と今は繋がっている」
そんな歴史の重みを感じたかったのです。本記事では江戸城外濠の15kmをご案内します。外濠の地図やそれぞれの門や濠について写真を中心にご説明しています。
門や濠については3Dマップや江戸期の写真、地形なども交えてご説明しています。
江戸城外濠と内濠の全体について
●ピンクの丸 外濠の門 | ●みどりの丸 内濠の門 | ■茶色 埋め立てられた濠 | ■黄緑色 内濠と外濠を繋いでいた濠 |
※門は江戸城三十六見附としています。( ●茶色の丸は 三十六見附以外の門 ) |
江戸城内濠と外濠の全体イメージです。地図はクリックで拡大します。
江戸城内濠と外濠の全体像のご案内はこちら。
江戸城内濠と外濠の一覧
江戸城内濠と外濠は明治政府による都市化・関東大震災・太平洋戦争の空襲・戦災の瓦礫処理という様々な災難に見舞われて多くの門や濠を失いました。 江戸の街づくりは驚くほどの時間をかけて築いたものでした。東京 ...
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外濠の地図と範囲
外濠の範囲
赤い太線に沿った部分が外濠になります。「日本橋川」の上流部から「の」の字を描くように隅田川に繋がっているイメージです。川ではありませんので水の流れが「の」の字に沿って流れていた訳ではありません。
外濠の起点(ここでは「日本橋川」の上流部とさせて頂く)が神田川と日本橋川が分岐する小石川門あたりから始まっていないのは理由があります。洪水対策のために日本橋川と神田川の水路を埋め立てたのです。
なのでこの起点あたりで濠が終わっていました。堀留という地名が今でも残っています。(日本橋川に架かる橋は堀留橋です)明治になり、再び掘削し神田川と繋げています。
江戸の頃は小石川門あたりから濠留までは水辺がなかった
埋め立てられた外濠
残念なことに、茶色部分の南半分の多くの濠は、明治以降の開発でほとんど埋め立てらてしまいました。きみどり色が埋められた外濠と内濠をつなぐ濠です。もしこの濠が残っていれば東京はベネチアにも負けない水の都といわれていたでしょうね。
現存する水辺
では外濠を満たしていた水辺が現在はどれ程度残っているかみてみましょう。
これが現在の水辺です。先ほどのご説明通り、ぱっとみて南半分の水辺がなくなっていることがわかるかと思います。
日本橋川を覆う首都高速
さらに日本橋川のほとんどを首都高速が覆っています。ほとんどというより全てといっていいですね。これによって日本橋川に関してはあまり水辺の雰囲気を感じられません。
今、「日本橋に空を復活させよう」というプロジェクトが進行しています。上空を覆う首都高速道路を地下化し日本橋に青空を復活させるものです。
地下化されるのは江戸橋あたりから神田橋あたりまでみたいですね。なんとか日本橋川全体を地下化してもらえると明るい外濠になるんですけどね。(とても大変だとは思いますが。)
この地下化の完成は2040年だそうです。なんとか生きぬいて青空を眺めにいきたいものです。
外濠一覧(記事一覧)
外濠の案内地図
赤ピン1の濠留から赤ピン19を経て隅田川まで門と堀を訪ねて外濠を巡ってみました。
外濠のご案内のために「門」と「門」の間をとり19ヶ所に分類してみました。地図上の「赤ピン」と「赤ピン」の間です。なお濠の名称は一部勝手に命名したものです。
外濠一覧について
外濠一覧
No | 名称 | サムネイル | 概要 | 濠・門の現存状況 |
1 | 日本橋川1 | 堀留 〜 雉子橋門 《濠のご案内》 位置:赤ピン1〜赤ピン2 | 日本橋川として現存 | |
2 | 雉子橋門 | 雉子橋門 《門跡のご案内》 位置:赤ピン2 | 一部の石垣が残存 | |
3 | 日本橋川2 | 雉子橋門 〜 一ツ橋門 《濠のご案内》 位置:赤ピン2〜赤ピン3 | 日本橋川として現存 | |
4 | 一ツ橋門 | 一ツ橋門 《門跡のご案内》 位置:赤ピン3 | 一部の石垣が残存 |
5 | 日本橋川3 | 一ツ橋門 〜 神田橋門 《濠のご案内》 位置:赤ピン3〜赤ピン4 | 日本橋川として現存 | |
6 | 神田橋門 | 神田橋門 《門跡のご案内》 位置:赤ピン4 | 一部の石垣が残存 | |
7 | 日本橋川4 | 神田橋門 〜 常盤橋門 《濠のご案内》 位置:赤ピン4〜赤ピン5 | 日本橋川として現存 | |
8 | 常盤橋門 | 常盤橋門 《門跡のご案内》 位置:赤ピン5 | 一部の石垣が残存 |
9 | 日本橋川5 | 常盤橋門 〜 呉服橋門 《濠のご案内》 位置:赤ピン5〜赤ピン6 | 日本橋川として現存し呉服橋門寄りは埋め立てられている | |
10 | 呉服橋門 | 呉服橋門 《門跡のご案内》 位置:赤ピン6 | 消滅 | |
11 | 埋立部1 | 呉服橋門 〜 鍛冶橋門 《濠のご案内》 位置:赤ピン6〜赤ピン7 | 消滅(埋立) | |
12 | 鍛冶橋門 | 鍛冶橋門 《門跡のご案内》 位置:赤ピン7 | 消滅 |
13 | 埋立部2 | 鍛冶橋門 〜 数寄屋橋門 《濠のご案内》 位置:赤ピン7〜赤ピン8 | 消滅(埋立) | |
14 | 数寄屋橋門 | 数寄屋橋門 《門跡のご案内》 位置:赤ピン8 | 消滅 | |
15 | 埋立部3 | 数寄屋橋門 〜 山下橋門 《濠のご案内》 位置:赤ピン8〜赤ピン9 | 消滅(埋立) | |
16 | 山下門 | 山下橋門 《門跡のご案内》 位置:赤ピン9 | 消滅 |
17 | 埋立部4 | 山下橋門 〜 幸橋門 《濠のご案内》 位置:赤ピン9〜赤ピン10 | 消滅(埋立) | |
18 | 幸橋門 | 幸橋門 《門跡のご案内》 位置:赤ピン10 | 消滅 | |
19 | 埋立部5 | 幸橋門 〜 虎ノ門 《濠のご案内》 位置:赤ピン10〜赤ピン11 | 消滅(埋立) | |
20 | 虎ノ門 | 虎ノ門 《門跡のご案内》 位置:赤ピン11 | 消滅 |
21 | 溜池 | 虎ノ門 〜 赤坂見附 《濠のご案内》 位置:赤ピン11〜赤ピン12 | 消滅(埋立) | |
22 | 赤坂見附 | 赤坂見附 《門跡のご案内》 位置:赤ピン12 | 一部の石垣が残存 | |
23 | 弁慶濠 | 赤坂見附 〜 喰違見附 《濠のご案内》 位置:赤ピン12〜赤ピン13 | 弁慶濠として現存 | |
24 | 喰違見附 | 喰違見附 《門跡のご案内》 位置:赤ピン13 | 元々門はなし |
25 | 真田濠 | 喰違見附 〜 四谷見附 《濠のご案内》 位置:赤ピン13〜赤ピン14 | 真田濠として現存(水はなし) | |
26 | 四谷見附 | 四谷見附 《門跡のご案内》 位置:赤ピン14 | 一部の石垣が残存 | |
27 | 市ヶ谷濠 | 四谷見附 〜 市谷見附 《濠のご案内》 位置:赤ピン14〜赤ピン15 | 市ヶ谷濠の一部が現存 | |
28 | 市谷見附 | 市谷見附 《門跡のご案内》 位置:赤ピン15 | 一部の石垣が残存 |
29 | 新見附濠+牛込濠 | 市谷見附 〜 牛込見附 《濠のご案内》 位置:赤ピン15〜赤ピン16 | 新見附濠+牛込濠として現存 | |
30 | 牛込見附 | 牛込見附 《門跡のご案内》 位置:赤ピン16 | 一部の石垣が残存 | |
31 | 飯田濠 | 牛込見附 〜 小石川見附 《濠のご案内》 位置:赤ピン16〜赤ピン17 | 消滅(埋立) | |
32 | 小石川見附 | 小石川見附 《門跡のご案内》 位置:赤ピン17 | 消滅 |
33 | 神田川1 | 小石川見附 〜 筋違見附 《濠のご案内》 位置:赤ピン17〜赤ピン18 | 神田川として現存 | |
34 | 筋違見附 | 筋違見附 《門跡のご案内》 位置:赤ピン18 | 消滅 | |
35 | 神田川2 | 筋違見附 〜 浅草見附 《濠のご案内》 位置:赤ピン18〜赤ピン19 | 神田川として現存 | |
36 | 浅草見附 | 浅草見附 《門跡のご案内》 位置:赤ピン19 | 消滅 | |
37 | 神田川3 | 浅草見附 〜 隅田川 《濠のご案内》 位置:赤ピン19〜 隅田川 | 神田川として現存 | |
38 | おまけ | 日本橋川最上流 《おまけ》 位置:赤ピン17〜赤ピン1 | 外濠ではないが日本橋川 |
さいごに
冒頭にもあげた通り、外濠の門や濠の多くは消滅してたり、石垣だけが残っている箇所がほとんどです。かえってそれが「かつてはどれだけ壮大だったのだろう」と想像力をかきたててくれます。
そして江戸の頃はどれだけ水辺が豊かだったのだろうと、江戸の頃を羨ましく思ったりもします。この広大な外濠が残ってて豊かな水辺が残ってたらよかったのになと。
そんな水辺を復活させようと活動なさっている方々もいらっしゃいます。すばらしい活動ですね。
明治神宮が150年先を見据えて森を作ったことはご存じでしょうか。
荒れ地だった土地に成長速度の違う樹木を順番に植えることで、150年かけて、この場所にふさわしい森を育てようという計画でした。
当時の学者たちは、人間の寿命よりずっと長い年月を見据えて、森自体の力で世代交代を繰り返す森を作ろうとしたんだそうです。
外濠もこんな感じに100年、150年先を見据えて再生していく事を祈っています。将来の東京人がせせらぎ溢れる豊かな水辺で暮らせますように。
江戸城内濠と外濠の全体像のご案内はこちら。
江戸城内濠と外濠の一覧
江戸城内濠と外濠は明治政府による都市化・関東大震災・太平洋戦争の空襲・戦災の瓦礫処理という様々な災難に見舞われて多くの門や濠を失いました。 江戸の街づくりは驚くほどの時間をかけて築いたものでした。東京 ...
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