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江戸の街作り(第7回):第5次天下普請 1636年頃(寛永13年)

 

江戸の街作り:第5次天下普請 1636年頃(寛永13年)の頃の江戸の様子

第5次天下普請 1636年頃(寛永13年)

本記事は江戸の街作り特集の第7回です。第1回からぜひご覧ください!

江戸の街作り(第1回):東京都心は湿地帯と谷だらけのしんどい場所

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第5次天下普請 時代背景

将軍:徳川家光時代:1636年頃(寛永13年)
1636年、長期に渡った天下普請も総仕上げに入ります。

武家諸法度を改訂し、大名に参勤交代を義務づける規定を加えました。

参勤交代により各国大名の力が削がれ、天下普請による築城により江戸城は権威の象徴となりました。

ついに徳川の安定した天下の基盤が整いました。

第5次天下普請

第5次天下普請で行った大きな事は下記の通りです。

  • 外濠の総仕上げ
  • 土地拡大

 

外濠の総仕上げ

溜池から神田川までを繋ぐ外濠の総仕上げに入りました。

外濠の総仕上げ

黄色枠に囲ったように淀橋台地の谷に沿って、外濠が築かれました。

現在の名称で弁慶濠、真田濠、市ヶ谷濠、新見附濠、牛込濠、飯田濠

同様に城門も築かれました。

虎ノ門、赤坂門、喰違門、四谷門、市ヶ谷門、牛込門、小石川門、筋違門、浅草橋門

そして黒線で示したように石垣が築かれた。溜池以北の外濠城門の多くは石垣は城門付近だけで大部分は土手でありました。

これは砲撃戦を想定した時に、石垣より土手の方が有効であると計算したものです。

下記一覧です。名称クリックで現在の詳細記事にリンクします。(別の外濠特集から抜粋したものです)

No名称サムネイル隣接する濠現存状況
1虎ノ門濠は消滅消滅
2赤坂見附溜池一部の石垣が残存
3喰違見附溜池・真田濠元々門はなし
4四谷見附真田濠・市ヶ谷濠一部の石垣が残存
5市谷見附市ヶ谷濠・新見附濠一部の石垣が残存
6牛込見附牛込濠・飯田濠一部の石垣が残存
7小石川見附神田川消滅
8筋違見附神田川消滅
9浅草見附神田川消滅

 

No濠の名称 サムネイル濠の現存状況
1弁慶濠

※赤坂見附〜(弁慶濠)〜喰違見附

弁慶濠として現存
2真田濠 

※喰違見附〜(真田濠・埋立堀)〜四谷見附

真田濠として現存(水はなし)
3市ヶ谷濠

※四谷見附〜(市ヶ谷濠+埋立堀)〜市谷見附

市ヶ谷濠の一部が現存
4新見附濠+牛込濠

※市谷見附 〜(新見附濠+牛込濠) 〜牛込見附

新見附濠+牛込濠として現存
5飯田濠

※牛込見附〜(飯田濠+神田川)〜小石川見附

消滅(埋立)
6神田川1

※小石川見附〜(神田川)〜筋違見附

神田川として現存
7神田川2

※筋違見附〜(神田川)〜浅草見附

神田川として現存
8神田川3

※浅草見附〜(神田川)〜隅田川

神田川として現存

 

外濠は白線で示したように「の」の字を描くように総構えを完成させます。

外濠は白線で示したように「の」の字を描くように総構えを完成させます。

総構えは、城や砦の外郭、またはその囲まれた内部のこと。 特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造です。

その構成は平川の濠留から始まり、隅田川まで続きます。

その構成は下記の通り。

平川(日本橋川)→ 外濠川 → 汐留川 → 溜池 → 弁慶濠 → 真田濠 → 市ヶ谷濠 → 新見附濠 → 牛込濠 → 飯田濠 → 神田川 → 隅田川

現代の地図で示すと下記のようになります。

外濠は「の」の字を描くように総構えを完成させます。

 

土地拡大

舟入掘の埋立

舟入掘の埋立

舟入掘の埋立

 

江戸城の石垣が完成するにつれて、石垣の荷揚げ場であった舟入掘は徐々に必要性が薄らいでいきました。

結果、紅葉川を残して徐々に埋め立てを進めて宅地化していきました。

また、吉原の東側に浜町川が入船として造られました。

海の埋立

この時期は海の埋立も進ました。

江戸湊の埋立

江戸湊の埋立

 

 

今はこんな感じに。高層マンションと企業が集中。

 

霊岸島

霊岸島は浄土宗の雄誉霊巌という僧侶の発願で、精力的に埋立が進められ道本山霊岸寺が建立された場所です。

江戸湊に集まる廻船乗組員が必要とする水や野菜、雑貨などを供給する機能を持った町でもあったそうです。

この島は埋立後かなりたっても地面がコンニャクのようにプルプルと震えるというのでコンニャク島と呼ばれたそうです。

 

新掘(箱崎)

新掘(箱崎)は中洲と霊岸島に挟まれた土地で、まず南部が埋めたてられたといわれています。

主に大名の下屋敷、蔵屋敷として利用されていたようです。

 

石川島

江戸時代初期、隅田川河口部に位置していた島は森島、鎧島などと呼ばれていました。

石川八左衛門重次が幕府から土地を拝領して屋敷を構えたことから「石川島」と呼ばれるようになったそうです。

石川島は江戸湊を防衛する機能を持っていたと考えられます。

 

佃島

本能寺の変が起きた時、徳川家康は堺にいました。

岡崎城へと戻ろうとした際、神崎川で川を渡る舟が無く進めなくなりました。

そこに現れたのが近くの佃村の漁民たちで、彼らが家康らに漁船を提供。その結果、家康らは生きて岡崎に戻ることができました。

後の家康江戸入府後、命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せたのが佃島の由来です。

漁民たちは漁の合間に休むことなく島を造成し、10年以上の歳月をかけて佃島を造っていったそうです。

佃村の漁民たちは自由に漁業を営む権利や、 年貢免除の特権を獲得し、江戸中期においても隔年で本国と江戸を行き来し御用を務めていたそうです。

 

深川

深川は摂津国(現:大阪府)から移住してきた深川八郎右衛門が小名木川北岸一帯の開拓を行い、深川村を創立しました。

 

まとめ

第5次天下普請のまとめです。

  • 外濠の総仕上げ
  • 土地拡大

ポイント1

●外濠の総仕上げ

・溜池から神田川までを繋ぎ、「の」の字型の外濠総構えが完成しました。

ポイント2

●土地拡大

・舟入掘や海を埋め立てが進んで、江戸が拡大した。

 

次回は江戸の街作りの総まとめになります。

江戸の街作り(第7回):第5次天下普請 1636年頃(寛永13年)

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