江戸の初めの頃の風景を想像できますか。江戸の初期は
・湿地帯が広がっていた。
・台地と谷で入り組んでいた。
・洪水が多かった。
・水が得にくかった。
という生活するには大変だった街だったって信じられますか?
今の東京を見ているととてもそうには思えませんよね。
江戸の街造り特集について
・こんなやっかいな土地をどうのようにして江戸のような都会にしていったのかご説明致します。
・全8回の特集記事になります。
・地図、地形、画像を多く使ってわかりやすくご説明いたします。
第1回:家康江戸入府の頃の江戸の地形(1590年)(本記事)
第2回:徳川直営の普請(1590年〜1592年頃)
第3回:第1次天下普請 1606年~1607年頃(慶長11年~12年)
第4回:第2次天下普請 1612年~1615年頃(慶長17年~20年)
第5回:第3次天下普請 1620年頃(元和6年)
第6回:第4次天下普請 1628年~1635年頃(寛永5年~12年)
第7回:第5次天下普請 1636年頃(寛永13年)
第8回:江戸の街作り・まとめ
江戸の風景はどうだったのか
低地はどうなっていた?
徳川家康が江戸に来る前は、こんな感じに葦が生い茂り、、、
低地には湿地帯が広がっていた。
皇居のある「武蔵野台地」の東端から市川・船橋あたりの「下総台地」の西端までがその湿地帯でした。
洪水がおこると低地は浸水し、今の隅田川や荒川あたりの河口では氾濫していました。
台地はどうなっていた?
武蔵野台地の上には雑木林が生い茂り、台地と台地の間にはたくさんの川が流れていました。
このように武蔵野台地は「台地」と「谷」で複雑の地形をしているのがわかります。東京は坂の多い街で有名ですが、「台地」と「谷」を行き来するのが坂です。 この街で電車やバスに乗って移動していると、あまりこの起伏を感じないかもしれませんね。
台地と低地の境目がとってもわかりやすいですよね。
今の東京は?
それが湿地帯はこんな感じに。
武蔵野台地の上もこんな感じに。
この繁栄ぶりを見ると、江戸がかつて湿地帯で葦だらけ、頻繁に洪水に悩まされていた街とは思えませんよね。 この繁栄は江戸の頃の治水工事、土木工事が大変大きいものになっています。
今の東京の風景を作っているのは江戸のおかげなのです。 江戸の街づくりは驚くほどの時間をかけて築いたものでした。東京の街並みはいたるところにこの江戸の頃の資産を活用しています。
これは徳川幕府とその幕臣、そして全国の大名とその臣下達の苦労のおかげなのです。 普通にその街並みの中で過ごしていると低地や台地を感じることも少ないと思います。
幕末の江戸の様子です。世界でも有数の大都市に発展することになります。
この東京の原型を造った江戸の街はどのようにしてできていったのか、時間を追ってみてみましょう。
東京・江戸の地形について
まずは東京の地形をみていきましょう。
地形図
東京都心は大きく皇居の西が台地、東が低地という構成になっていることがわかると思います。 台地の間にたくさんの谷がありますね。江戸の頃はこの谷に多くの川が流れていました。
そして東の低地にはいくつかの大河が流れ込んでいて、洪水や氾濫を繰り返していました。 江戸の街はこの台地と低地をうまく開発してできた街なのです。それが今の東京へと引き継がれています。
今の御茶ノ水や上野公園あたりも台地であることがわかりますね。東京の台地は平均して20mくらいの高さがあります。
少し立体的にしたものです。武蔵野台地が台地と谷に刻まれているのがわかります。これは川の侵食や海の波による侵食です。
さらに低地部を広げてみてみると武蔵野台地の東端から市川の台地あたりまで広大な平野が広がっていることがわかります。ここはその昔は湿地帯でした。
国土地理院・地理院地図で地形を確認してみる
こちらは国土地理院の地図で地形を分類したものです。下記地理院の地形分類です。
地形分類 | 地図色 | 成り立ち |
台地・段丘 | 橙 色 | 周囲より階段状に高くなった平坦な土地。周囲が侵食により削られて取り残されてできる。 |
砂州・砂丘 | 薄 黄 色 | 主に現在や昔の海岸・湖岸・河岸沿いにあり、周囲よりわずかに高い土地。波によって打ち上げられた砂や礫、風によって運ばれた砂が堆積することでできる。 |
氾濫平野 | 黄 緑 | 起伏が小さく、低くて平坦な土地。洪水で運ばれた砂や泥などが河川周辺に堆積したり、過去の海底が干上がったりしてできる。 |
水部 | 水 部 | 調査時において、海や湖沼、河川などの水面である場所。 |
崖・段丘蓋 | 紫 | 地の縁にある極めて急な斜面や、山地や海岸沿いなどの岩場。 |
旧水部 | 灰 色 | 江戸時代もしくは明治期から調査時までの間に海や湖、池・貯水池であり、過去の地形図などから水部であったと確認できる土地。その後の土砂の堆積や土木工事により陸地になったところ。 |
これを見てもわかるように東京(江戸)都心部は氾濫平野や水部、砂州などの低地と台地で構成されていることがわかります。
次に江戸の歴史を振り返ってみましょう。徳川家康が江戸に来る前は太田道灌が江戸城を築いていました。
家康の江戸入府・歴史的背景
太田道灌
太田道灌(おおたどうかん、1432年-1486年)は室町時代中期の武将。30数回戦って負けなしという名将でした。
関東管領上杉氏の一族で、 扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰である太田資清(道真)の子として相模で生まれたとされるが詳細については諸説があり定かではありません。
父資清を継いで扇谷上杉家の家宰となり江戸城 を最初に築城したことで知られ、最後は主君に謀殺されるという、戦国の世をかけ抜けた悲劇の武将でもあります。
鎌倉五山や足利学校(栃木県足利市)で学んだ後、品川湊近くに居館を構え(現在の御殿山あたり)、 ここでの通商を押さえて力を蓄えました。
父資清を継いで扇谷上杉家の家宰となり江戸城 を最初に築城したことで知られ、最後は主君に謀殺されるという、戦国の世をかけ抜けた悲劇の武将でもありました。
戦国の世にあって人心の風情を知る人柄や、下克上の世の中ゆえの非業の死から、太田道灌を偲ぶ人は多いそうです。
道灌暗殺後、伊豆にいた北条早雲が関東に進出し、その後裔である北条氏康に上杉家は関東を追われてしまいました。
その後、天下の実権を握りつつあった豊臣秀吉が北条氏と真田氏との領土紛争をきっかけに「小田原征伐」に打って出て、22万を数える豊臣軍の前に北条氏は降伏。
北条家は滅亡し豊臣秀吉が天下統一を果たしました。
徳川家康の江戸入府の歴史
天下人:豊臣秀吉 | 時代:1590年(天正18年)頃 |
豊臣秀吉は織田信長の天下統一事業を引き継いで瞬く間に勢力を広げていき、「もはや豊臣の世」と社会は認識していました。 家康は有力な一大名でありましたが、結局は豊臣家の家臣としてその傘下に入ることになり、天下統一事業を助けました。 1590年に豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻略し、天下の統一を果たしました。 |
豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻略し、天下の統一を果たした後、論功行賞と諸大名の再配置を行いました。
徳川家康は領地替えを命じられ、旧領の三河・遠江・駿河・信濃・甲斐を手放し、
関八州(伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野)を与えられるのです。
関東平野のほとんどですね。
冒頭でも述べたように当時の江戸は整った街ではなく、葦が生え湿地帯と台地で構成された土地でした。
家康が北条が造った小田原に居をかまえず、なぜ江戸にしたのか。
江戸が発展する土地だという江戸のポテンシャルを家康は見抜いたと言われています。
徳川家康は豊臣秀吉が亡くなるとさらにその工事スピードを上げていきます。
集中的に大規模公共工事を進めました。これを天下普請といいます。
家康は1616年に逝去しますが、二代・秀忠、三代・家光の頃までこの天下普請は続けられました。
1582年に家康が工事に着手して以来、半世紀を超えて江戸城は完成するのです。
天下普請は幕府に命じられた大名がそれぞれ請け負っています。
それでは次に家康が江戸に入る前の地形ををみてみましょう。
家康江戸入府の頃の江戸の地形(1590年)
先ほどの国土地理院の地理院地図で加工してみました。
家康が江戸に入府した1590年頃の地形です。
特徴
・日比谷入江(遠浅の海が)現在の大手町付近まできていた。
・江戸前島という半島がある。
・平川が日比谷入江にそそいでいた。
・江戸湊に旧石神井川、入間川(隅田川)がそそいでいた。
・小河川が江戸城本丸の西側の台地の谷に流れていた。
・自然堤防が入間川(隅田川)沿いあり、浅草寺があった。
・大きな池が低地の湿地帯に広がっていた。
特徴1日比谷入江
なかなか信じ難い感じではありますが、上図の青枠部分、今の皇居外苑・丸の内・日比谷公園あたりは遠浅の海でした。
現在のJR浜松町駅の辺りから皇居東御苑の大手門・大手濠周辺までのおおよそ奥行きが4km、平均幅400mの規模でした。
特徴2江戸前島
江戸前島は砂州でできた半島になっています。日比谷入江と江戸湊に挟まれた微高地になっていました。
上図の黄色箇所、有楽町駅周辺、銀座(西部)、京橋や日本橋などまさに現在の経済の中心地がこの江戸前島にありました。 日比谷入江の東側の台地が削られて微高地になりました。
地形図の下半分の黄色の枠線部分が江戸前島です。わかりにくいですが、周りより若干標高が高い事が読み取れます。
武蔵野台地の東端である「霞ヶ関」周辺から東銀座あたりまでの断面図をみてみましょう。
このように「江戸前島」が微高地だったことが読み取れると思います。 この江戸前島からは「有楽町1丁目遺跡」が発見されており、江戸の頃より前の遺跡として室町時代の人骨などが発見されたそうです。
数寄屋橋の交差点から日比谷公園方面に向かっても起伏を感じることができないくらいの微高地ですね。
特徴3平川
平川は江戸城直下の東側に河口があった川でした。現在の日本橋川、神田川の原型となっていた川です。
家康入府の頃は「井の頭池」「善福寺池」「妙正寺池」を主に水源とする流れが合流して現在の飯田橋から九段下を経て、小石川も合流し大手町あたりで日比谷入江に注いでいました。
江戸城にある平川濠・平川門はその名残です。
この平川の治水が江戸幕府の大きな仕事でした。
緑色で示したように当時の平川はこんな感じで日比谷入入江に注いでいたんでしょう。
少し話が横にそれますが、現在の日本橋川(平川)は赤い線で示したように水道橋の西から神田川と別れ南下して隅田川に注いでいます。
この地図の日本橋川に違和感を覚えた方は正解です。
現在の日本橋川はそのほとんどを首都高速に覆われています。昭和の東京オリンピック(昭和38年)を前に、首都高建設を急ぎ、土地収用が必要ない河川の上を通すのが手っ取り早かったのです。
その結果、この高速下には「一ツ橋門」「神田橋門」などの門跡や外濠の石垣などが残っていますが、その遺構が目立つことなく存在し高架の影響なのかとても暗く感じます。
もちろんこの川沿いには江戸の商業の中心である日本橋もありました。 現在、日本橋に空を戻すプロジェクトがたちあがっていて、2040年には首都高速が地下化されます。
ぜひ、明るい日本橋川を見てみたいものです。
特徴4江戸湊
江戸湊
低地を流れる川の入間川(隅田川)や旧石神井川の河口の先には江戸湊が拡がっていました。
そもそも湊という言葉には
「川がその支流をあつめて大河となり、河口から海に流れて散っていく有様を著した文字」
という意味が含まれているそうです。
集中と分散の場という、これからの江戸が大都市に発展していくための水運などの都市機能をうまく表しているように思えます。
入間川(隅田川)
その江戸湊には入間川(現在の隅田川)が注いでいました。
隅田川は古い時代には入間川と呼ばれ、浅草あたりでは「浅草川」、千住大橋あたりでは「千住川」、駒形あたりを「宮戸川」、両国橋から海までは「大川」と呼ばれていました。
一本の川をこのように上流から下流にかけて分割して呼称を変えることは南関東ではよくあったそうです。
隅田川は「武蔵国」と「下総国」との国境でした。「両国橋」の両国は武蔵と下総を指しています。
これから発展していく江戸において隅田川は利根川流域を始めとする水運が可能な多くの河川の流域を一つの経済圏に結びつける役割を果たしました。
河口部の江戸湊は大坂(上方)から、一大消費地である江戸へ商品をはこぶ「菱垣廻船」、「樽廻船」や太平洋沿岸沿いの航路をとって江戸へ回航する「東廻航路」など、遠方経済圏と交流する基地の役割も果たしました。
隅田川を中心に、平川・神田川・小名木川・竪川・中川などの多くの水路と舟運が発達し、その両岸には河岸が成立して商業地を発展させました。
旧石神井川・谷田川
旧石神井川・谷田川は王子の飛鳥山付近から上野台地と本郷台地の間を流れて不忍池にそそぎ込んでいました。
不忍池に注いだ部分が谷田川と呼ばれていました。不忍池からは今の湯島駅(東京メトロ)から筋違橋門(江戸城三十六見附)あたりから川筋を変え、昭和通りを流れて江戸湊に注いでいました。
旧石神井川河口は現在の江戸橋あたりになります。
特徴5小河川
下記のような河川が複雑な谷の間を通っていました。
赤坂川・太刀洗川
赤坂川は現在の四谷の須賀町、JR信濃町付近を源流とする小河川が合流し、現在の虎ノ門付近で日比谷入江に注いでいました。太刀洗川は現在の赤坂氷川神社あたりを水源として赤坂川に合流していました。
この両河川は溜池を造ることになった水流となる川です。
紅葉川
現在の曙橋駅近辺のあけぼの橋通り商店街の北側の源流と、東京医科大学付近の禿坂を源流としています。二つの川は市ヶ谷を通り、飯田橋付近で平川に合流していたと思われます。
千鳥ヶ淵川(局沢川)
本の河川が合流して、現在の乾門→蓮池濠→蛤濠→坂下門→桔梗濠あたりを流れて日比谷入江に注いでいました。この川筋は家康入府までは「局沢十六寺」と呼ばれる寺院地帯を形成していました。
この頃にはまだダムとしての千鳥ヶ淵はできていません。
桜田濠水系
現在の半蔵門あたりの谷からと紀尾井町東端からの水源が三宅坂あたりで合流しに日比谷入江に注いでいました。この頃にはまだ濠としての桜田濠はできていません。
小石川・谷端川
現在はほとんど名残がないこの両川は途中で合流した上で、JR水道橋付近を経て平川に合流していました。
音羽川・弦巻川
音羽川は現在の護国寺の前からまっすぐに伸びる音羽通りの東側を流れていました。弦巻川はその西側を流れていました。
この二つの小川は江戸の頃、「紙すき(製紙)」で知られていました。
特徴6自然堤防
地図右上の黄色部分が、周りより若干標高が高い事が読み取れます。入間川(隅田川)右岸は微高地になっていました。
微高地をつくったのは
・入間川が運んできた土砂で自然堤防が作られたこと
・台地が波で削り取られ残されたもの
・河口部の砂州
この3つで微高地が作られています。
自然堤防とは河川が運んできた土砂が沈殿し、堆積した場所のことです。洪水が繰り返されたことを物語っています。
この微高地にあるのが浅草寺です。東京都内最古の寺院と言われているように創建は645年です。
こんなに昔から存在するのは、周りが湿地帯でもこの一帯は安定した土地だったのでしょう。
家康は江戸入府前に先に見た浅草寺を幕府の祈願所と定めています。
特徴7大きな池
低地の湿地帯には大きな池が広がっていました。
白鳥池
現在の飯田橋駅の北方から江戸川橋駅付近に広がっていた池です。江戸よりもっと昔、縄文海進と呼ばれる時期は入江がもっと内陸まで入り込んでいました。
その入江の一部が海岸線の後退により取り残された名残ではないかとも言われています。
国土地理院の地形図の説明をみても白鳥池周辺は
水部 → 海や湖沼、河川などの水面である場所。
とあるように池だか湿地だかわかないような土地だったのではないでしょうか。
千束池
現在の入谷・竜泉寺・千束一帯に「千束池」が広がっていました。
右岸の千束四丁目には吉原遊廓ができることになります。
お玉ヶ池
現在の岩本町2丁目から鍛治橋2丁目あたりにありました。池のほとりにたくさんの桜の木があったので「桜が池」とも呼ばれたそうです。
江戸名所図会にはお玉という美女が二人の男性から同時に求愛を受け、身投げをしたという話が伝えられています。
不忍池
現在も上野の地に残る不忍池。この池も先述の白鳥池と同じく、海岸線の後退により取り残された名残と考えられています。
後に徳川の菩提寺となる寛永寺が建立されます。開祖の天海僧正が不忍池を琵琶湖に見立て、琵琶湖の竹生島・宝厳寺に倣って弁天島(中之島)を築かせ辯天堂を築きました。
まとめ
もう一度まとめると
特徴
・日比谷入江(遠浅の海が)現在の大手町付近まできていた。
・江戸前島という半島がある。
・平川が日比谷入江にそそいでいた。
・江戸湊に旧石神井川、入間川(隅田川)がにそそいでいた。
・小河川が江戸城本丸の西側の台地の谷に流れていた。
・自然堤防が入間川(隅田川)沿いあり、浅草寺があった。
・大きな池が低地の湿地帯に広がっていた。
こうして見てみると多くが水に関わる特徴があります。
江戸の街は治水が重要なポイントで水を制御しながら、低地と台地の高低差を利用したりして大きく街を発展させていくことになります。
では次回以降で江戸をどのように都市化していったのかみてみましょう。
江戸の街作り(第2回):徳川直営の普請(1590年〜1592年頃)
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