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江戸の街作り(第2回):徳川直営の普請(1590年〜1592年頃)

徳川直営の普請(1590年〜1592年頃)でできた江戸の街

本記事は江戸の街作り特集の第2回です。第1回からぜひご覧ください!

江戸の街作り(第1回):東京都心は湿地帯と谷だらけのしんどい場所

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徳川直営の普請 時代背景

天下人:豊臣秀吉 時代:1590年(天正18年)頃
 

豊臣秀吉は天下人となり、弟の秀長や茶人の千利休をブレーンとして秀吉が独裁を行っていました。

甥で養子の秀次に関白職を譲った後も、太閤として実権を握り続けたのです。

天正19年(1591年)には明の征服を目ざして朝鮮出兵を敢行するなど、侵略戦争を仕掛けていきました。

そして秀吉の信頼も厚かった千利休ですが、徐々に2人の間の溝は深まっていき、利休に切腹を命じることになります。

結果として朝鮮出兵もうまくいかず、この頃から秀吉の落ち目が現れてきていたようにも思えます。

江戸の街づくりの大変さは家康を相当悩ませたと思います。しかし時代はまだ豊臣政権下。江戸の街づくりは秀吉に遠慮しながらも徳川家で街づくりをしなければならなかったのです。

まずやらなければいけなかったこと、それは以下3つです。

  • 塩の確保
  • 治水
  • 飲料水の確保

 

徳川直営の普請(1590年〜1592年頃)でできた江戸の街。道三堀や平川付替、小名木川開削、千鳥ヶ淵や牛ヶ淵のダム化を行った

大きく4点の工事を行いました。

塩の確保

生活必需品である塩を獲得することが課題でした。

塩は現在の石油に匹敵する重要な戦略物資でもありました。

現在の行徳・長嶋(現在の江戸川区)はすばらしい塩田地帯でした。

行徳・長嶋の周辺の特徴

・広大な沖積海岸(平穏な海に面した砂浜があること)

→塩田に海水を導入する

・天日や風で水分を蒸発させて濃縮させた後に煮詰める

→その煮詰める燃料である葦(あし)や芦(よし)などの植物が無限に広がっていた。

このように製塩用の豊富な燃料に恵まれていました。

塩の確保のため、この行徳・長嶋の製塩地帯の間を水路で江戸城に直結させる必要がありました。

小名木川

小名木川

徳川最初の土木工事で沿海運河である「小名木川」を造りました。

沿海運河は海岸に沿って作られた水路です。

別に水路がなくても海岸沿いに海を伝っていけばいいじゃやないかと思うかもしれません。

海岸線を安定して航行することは「海岸の地形」や「潮流の影響」「流入する川の影響」などが

重なって安定した航行が難しい問題がありました。

なので海岸線のすぐ内側に水路を作って、安定した曳舟をしたのです。

 

道三堀

道三堀

小名木川の形成工事と並行して江戸前島の付け根に道三堀という水路を掘りました。

江戸城築城用の資材や生活物資を運び入れる為の水路です。

徳川家の自前工事で現在の和田蔵門あたりから一石橋西側まで開削しました。

堀の南側に今大路道三の屋敷があったことが名の由来のようです。

以下で述べますが道三堀の開削と平川の付け替えは同時に行われていたようです。

現在は遺構も含めてまったく残っていません。

道三堀

現在の地図でみるとこんな感じ。

道三堀

今は高層ビルだらけ。そこに堀があったことなんて想像もつきませんよね。

塩の道

徳川家康は塩の道を造った

道三掘や小名木川を開削することによって

行徳・長嶋→江戸川(利根川)→新川→小名木川→入間川(隅田川)→旧石神井川河口→道三堀→江戸城

と安定して塩を運んだのです。

このルートは必ずしも塩だけの話だけではなく、江戸城から東北方面へ水路で抜けることもできるので軍事的な意味合いも大きかったという説もあります。

治水・水運

江戸を発展させるには、暮らせる土地を増やす必要がありました。広い低地があっても湿地帯であったり、度々洪水がおこっているようでは街が発展できません。

そのための治水工事が進められました。

平川付け替え

洪水防止のため平川を付け替えた

家康入府の頃

洪水防止のため平川を付け替えた

平川付け替え

平川河口は江戸城のすぐそばにあり、江戸城と江戸前島との間を流れて日比谷入江に注いでいた。

上図の赤い線で描いてあるように、日比谷入江までの流れを現在の一ツ橋あたりで流路を変更し、江戸湊に流れるようにしました。

これには下記の目的がありました。

・平川は台地と低地をさえぎる存在で江戸城と江戸前島を陸続きにする必要があった

・江戸湊の範囲を拡張する必要性があった。

・河口部の洪水を防止する。

・旧平川河床を濠に転用できる。

 

池埋め立て

千束池は土地開拓と住民の要望に基づき、鳥越村民の手で埋め立てられたようです。

白鳥池も干拓地として埋め立てられたようです。

どちらにせよ土地を増やさないといけないという点では共通していますね。

 

飲料水の確保

ケタ違いの軍勢を引き連れて江戸に入城した家康にとって、大きな課題となったのが飲料水の確保でした。

江戸は海が近くて塩分が多く、井戸を掘っても飲料水には適しませんでした。

そこでまず着手したのは飲用水用のダム湖を作ることでした。

千鳥ヶ淵ダム・牛ヶ淵ダム

千鳥ヶ淵・牛ヶ淵というダム湖を作りました。淵はダムという意味があります。

現在もこの二つの淵は現存していますが、これ以外は"淵"ではなく、すべて"濠"という名称がついています。

飲料水確保のため、千鳥ヶ淵・牛ヶ淵を造ってダム化した

ダム構築前

千鳥ヶ淵ダム・牛ヶ淵ダム

千鳥ヶ淵は麹町から流れて日比谷入江に注いでいた千鳥ヶ淵川などの3本の河川をせきとめてダムとしました。

現在は千鳥ヶ淵の南は半蔵濠となっていますが、当時は一帯の水面でした。

牛ヶ淵は現在の北の丸公園からの湧水を利用して台地東端の河岸段丘をダムとして築きました。

牛ヶ淵と南にある清水濠の水面の高さの差は2.6mありますが、水量が増えても清水濠に流れるよう溝が掘られています。

まとめ

以下、徳川直営の普請(1590年〜1592年頃)の街づくりをまとめると以下の通りです。

  • 塩の確保 → 道三掘や小名木川を開削し、江戸城へ生活必需品である塩を運搬する道を造った。
  • 治水 → 平川の付け替えや湿地帯を埋め立てて、洪水を防ぎ、生活ができる土地を増やしていった。
  • 飲料水の確保 → 増え続ける人口を支える為に、飲料水の確保を行った。

 

次回から全国の大名を巻き込んだ天下普請の時代が始まります。

江戸の街作り(第3回):第1次天下普請 1606年〜1607年頃(慶長11年〜12年)

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