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江戸の街作り(第3回):第1次天下普請 1606年〜1607年頃(慶長11年〜12年)

 

第1次天下普請・1606年〜1607年頃(慶長11年〜12年)で造られた江戸の街。日比谷入江埋立、日本橋ができる。そして五街道成立。神田川放水路などができる。内濠もできる。

本記事は江戸の街作り特集の第3回です。第1回からぜひご覧ください!

江戸の街作り(第1回):東京都心は湿地帯と谷だらけのしんどい場所

江戸の初めの頃の風景を想像できますか。江戸の初期は ・湿地帯が広がっていた。 ・台地と谷で入り組んでいた。 ・洪水が多かった。 ・水が得にくかった。 という生活するには大変だった街だったって信じられま ...

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第1次天下普請 時代背景

将軍:徳川家康時代:1606年〜1607年頃(慶長11年〜12年)
1598年豊臣秀吉は没しました。

1600年の関ヶ原の戦いを制した徳川家康は天下の実権を握りました。

そして1603年に征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いたのです。

室町時代から続いてきた戦乱の世に終わりを告げ、265年におよぶ長期政権として徳川家は君臨します。

将軍宣下によって家康はもはや豊臣政権の大老ではなく、「武家の棟梁」の頂点にたったことになります。

諸大名たちにとって、将軍となった家康に呼応していくことが増え、豊臣家(秀頼)との関係が微妙に変化していきました。

天下普請とは

天下普請は河川改修や街道整備などの大規模工事(公共事業)を全国の大名に割り振って手伝わせることです。

徳川幕府にとって、権力を誇示できるとともに、諸大名の蓄えを減らして勢力を削ぐことも目的の一つでした。

現場で働く人足の手配から資材まで基本的に大名持ちとなり、家康に反撃を挑む余裕などありませんでした。

秀吉に気を遣う事がなくなり本格的に江戸の大規模工事を進めることになります。

第1次天下普請で行った事

第1次天下普請で行った大きな事は下記の通りです。

  • 人口増に伴う土地整備
  • 治水と街道整備
  • 江戸城の築城

 

人口増に伴う土地整備

湿地帯が多い江戸の街ですが、人が住める土地を増やしていかないといけません。

徳川直営工事の時代に平川を付け替えて、江戸城の直下の元々平川河口であった場所を広げたかったのです。

日比谷入江埋立

そして日比谷入江を埋め立てることになります。

日比谷入江埋立

日比谷入江 埋め立て前

日比谷入江埋立

日比谷入江 埋め立て後

 

日比谷入江埋め立ての目的

・天下の城下町にふさわしい広さの宅地の造成。特に大名屋敷。

・日比谷入江を築城工事に伴う残土の処理先とした。

・外敵の船が江戸城直下に侵入することを防ぐこと。

日比谷入江・江戸前島

青枠の部分を埋め立てた。現在の日比谷濠や馬場崎濠などは日比谷入江を埋め残したもの。

外濠川

外濠川は江戸前島を流れる。今の八重洲や銀座あたりを流れていた。

埋め立ての前提として入江に流入する多くの河川の水の処理が必要でした。

そこで江戸前島に外濠川という平川のバイパスを掘って排水路として役割をもたせて直接海に放流しました。

水抜きを促進させるために入江の底の深浅の状態にあわせて城の内外から流出する小河川の水をたくみに集合させました。

そして入江の埋立地に埋め残し部分や濠を新しくつくりながら外濠川に放流したのです。

(現在の馬場崎濠、日比谷濠、凱旋濠、日比谷門から山下門につながる濠)

外濠川の西岸は大名屋敷、東岸は経済活動を維持する町人居住地域となり、日本橋や京橋、銀座といった商、職(工業)の町並みが造られたのです。

外濠川は江戸前島を流れる。今の八重洲や銀座あたりを流れていた。

現在の地図上で外濠川があった場所です。外堀通り沿いに外濠川が流れていました。戦後の瓦礫処理の場所として全てが埋め立てられてしまいました。

ここに濠があった痕跡は全くありません。

溜池

江戸の領域が増えるにつれて飲料水の問題もでてきました。

そこで赤坂川などの小河川を堰き止め上水ダムとしての溜池を造成しました。

溜池は江戸の西南部に水を供給しました。

溜池はダム化された

溜池完成前(小河川が流れていた)

溜池はダム化された

溜池ダム

溜池ができる前は四谷や信濃町から流れる小河川が合流し日比谷入江に注いでいました。

日比谷入江の埋立てに伴い、溜池からは日比谷入江の埋立てた場所に改めて運河と外濠を兼ねた川として汐留川が作られました。

現在の新橋駅の北側を通り外濠川に合流。浜離宮を通り、江戸湊に注いでいました。

汐留川からの潮汐の干満の影響が内陸部に及ぶのを防ぐために虎ノ門の西側に汐除けのダムを作り、その結果としてダムから上流に水が溜まったのを溜池と呼ぶようになったそうです。

以降、この水面は江戸城の外濠としての役割と初期の江戸市街南西部の上水源としての役割をもつようになりました。

溜池は現在の赤坂見附から虎ノ門まで約1.8Kmの外堀通りの道幅一杯が溜池の水面でした。

江戸の終わりの頃の溜池

江戸の終わりの頃の溜池

現代の溜池

青枠で括った「外堀通り」が溜池の水面だった。現在の赤坂見附や溜池山王が池だったなんて信じられないですよね。

溜池の底

外堀通りの特許庁前。この辺は溜池の底だったと思われる。底から陸に向けて坂が登っています。

溜池発祥の碑

溜池発祥の碑(溜池交差点)

治水と街道整備

もちろんこの頃にも治水工事が進められました。そして各国から江戸へ通ずる路として五街道が整備されたのです。

神田川放水路

神田川放水路で旧石神井川を隅田川に注ぐように流路を変えた

旧石神井川は江戸湊に注いでいた

神田川放水路で旧石神井川を隅田川に注ぐように流路を変えた

神田川放水路を造成し隅田川に注がせた

旧石神井川の放水路として隅田川から柳橋、万世橋付近までの本郷台地の東端まで初期の神田川が掘られました。

その結果、下流から河口の間の日本橋地区は洪水被害を受けることがなくなったのです。

現在の神田川放水路

現在の神田川放水路付近。和泉橋(秋葉原駅の南)から浅草橋方面。

神田川と隅田川の合流地点。

神田川と隅田川の合流地点。

堀留川

堀留川

神田川が創設されることによって旧石神井川は隅田川に放流されるようになりました。

旧石神井川の元河口は、東堀留川・西堀留川が造成されました。これにより江戸湊の中心的な河岸が成立する基盤となったのです。

お玉ヶ池埋め立て

お玉ヶ池埋め立て

お玉ヶ池埋め立て

江戸拡張工事に伴って区域内にあった多くの寺がお玉が池の湿地帯に移転しました。さらに大名屋敷用地を確保するために徐々に埋め立てられていきました。

日本橋

日本橋は道路整備計画に従って、初代の木製「日本橋」が架けられました。

 

日本橋は道路整備計画に従って、初代の木製「日本橋」が架けられました。

日本橋

日本橋は道路整備計画に従って、初代の木製「日本橋」が架けられました。

日本橋地区の本町通りとその南北には諸国の商人と諸職人とが集住し、幕府と諸大名らが必要物資や労役を調達する商業地域となりました。

そして、この日本橋に五街道の起点が設定されました。五街道の起点として、江戸の町でもっとも賑わう場所として発展していきます。

歴史CG作家の中村宣夫さんのサイトが素晴らしいです。日本橋の様子をCGで表現しています。

五街道

江戸幕府の成立(1603年)と同時に伝馬組織を持つ「五街道」が制定されました。 江戸を起点とする五街道は、いずれも日本橋を中心に放射状に計画されています。

江戸幕府の成立(1603年)と同時に伝馬組織を持つ「五街道」が制定されました。

江戸を起点とする五街道は、いずれも日本橋を中心に放射状に計画されています。

東海道太平洋沿いで江戸と上方を直結する街道であり、最も交通量が多かったが海・川沿いの為、雨や高潮に弱かった。
中山道東海道より宿駅が多く遠回りになり、木曽などが代表されるように道も険しい街道だがよく利用された。

河川の増水による「川止め」のある東海道に比べて、宿泊日程の予定が立てやすかった。

日光道日光道中、奥州道中は日本橋から宇都宮までは同じ道筋で、東北に備える街道でした。

宇都宮から日光までは将軍の日光東照宮参拝道路でした。

奥州道
甲州道大名はほとんど通らない街道でしたが、信濃や甲斐、秩父・青梅などの産物の江戸への重要な輸送路でもありました。

 

築城

江戸城の築城も本格化していきます。赤線に示した本丸、二の丸、北の丸の外郭・石垣工事を行いました。

江戸城の築城も本格化していきます。赤線に示した本丸、二の丸、北の丸の外郭・石垣工事を行いました。

江戸城の築城も本格化していきます。赤線に示した本丸、二の丸、北の丸の外郭・石垣工事を行いました。

本丸、二の丸、北の丸工事

本丸・平川濠の石垣

本丸・平川濠の石垣

本丸・乾濠の石垣

本丸・乾濠の石垣

本丸・白鳥濠の石垣

本丸・白鳥濠の石垣

二の丸・天神濠付近の石垣

二の丸・天神濠付近の石垣

北の丸・千鳥ヶ淵の石垣

北の丸・千鳥ヶ淵の石垣

北の丸・牛ヶ淵の石垣と土手

北の丸・牛ヶ淵の石垣と土手

外濠の石垣

平川から外濠川に至る外濠に沿って石垣を構築しました。

赤線に示した平川から外濠川に至る外濠に沿って石垣を構築しました。

一ツ橋付近の石垣。

一ツ橋付近の石垣。

一ツ橋付近の石垣。刻印も見える。こんなに立派な遺跡が注目されていない。

一ツ橋付近の石垣。刻印も見える。こんなに立派な遺跡が注目されていない。

虎ノ門付近。日比谷セントラルビルの西側に石垣がある。ひっそりと存在し、なにも案内板がない。

虎ノ門付近。日比谷セントラルビルの西側に石垣がある。ひっそりと存在し、なにも案内板がない。

文部科学省内部にある石垣。発掘調査で発見された石垣を展示。

文部科学省内部にある石垣。発掘調査で発見された石垣を展示。

 

内濠の構築

清水濠・大手濠・和田倉濠・桔梗濠・蛤濠・二重橋濠・蓮池濠・乾濠・平川濠といった濠が本丸を囲うように造られた

現在の名称だと、清水濠・大手濠・和田倉濠・桔梗濠・蛤濠・二重橋濠・蓮池濠・乾濠・平川濠といった濠が本丸を囲うように造られた。

江戸の頃は「お濠」と呼ばれていただけで、個別の名称はなかったそうです。

現在の濠の名称は下記を参照してください。

清水濠・大手濠・和田倉濠・桔梗濠・蛤濠・二重橋濠・蓮池濠・乾濠・平川濠といった濠が本丸を囲うように造られた

 

大手門、坂下門

大手門、坂下門

大手門、坂下門の城門工事を行いました。

大手門慶長12年(1607)に藤堂高虎・伊達政宗などによって渡櫓型の櫓門と高麗門からなる枡形門を築造。
坂下門江戸城西の丸造営直後に枡形門を築造られたと言われています。西の丸の坂下にあったのでが由来のようです。西の丸大奥に近く、西の丸御殿の通用門として利用されていました。

江戸城の門構えは基本、枡形になっています。

手前:高麗門 右手:渡櫓門手前:高麗門 右手:渡櫓門

江戸城には主要な36見附があったといわれ江戸城三十六見附(えどじょうさんじゅうろくみつけ)と呼ばれています。

多くの門は二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにして造られています。これを枡形といいます。

桝形門の特徴

  • 高麗門(第1門)は小さく狭い。入った中は矩形の空間になります。
  • 渡櫓門(第2門)は高麗門を入って右か左に存在します(右が多い)。渡櫓門は大きくて強い造りになっていて櫓がついている。ここから侵入した敵を弓や鉄砲で攻撃します。
  • 濠に架かる橋は有事の際には切り落として敵の侵入を防ぎます。

大手門、坂下門の下記記事もぜひご覧ください。

《江戸城内濠》大手門

【大手門】 大手門は北に大手濠、南に桔梗濠の間にある門です。大手門だけに江戸城の正門であり、奥州街道の起点でした。渡櫓型の櫓門と高麗門からなる枡形門になっています。 慶長12年(1607)に藤堂高虎・ ...

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《江戸城内濠》坂下門

坂下門は江戸城西の丸造営直後に造られたと言われています。西の丸の坂下にあったのでが由来のようです。西の丸大奥に近く、西の丸御殿の通用門として利用されていました。 江戸の頃は枡形門でしたが、明治18年に ...

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西の丸工事

西の丸工事

黄色線で示した西の丸の工事を行いました。

 

まとめ

第1次天下普請のまとめです。

  • 人口増に伴う土地整備
  • 治水と街道整備
  • 江戸城の築城

ポイント1

●人口増に伴う土地整備

・日比谷入江を埋め立てて宅地の造成。

・外濠川を造って日本橋などの商工業地域の造成。

・溜池を造成し飲料水の確保。

ポイント2

●治水と街道整備

・旧石神井川の放水路(神田川)を掘削し、河口の洪水被害を削減。

・日本橋を中心に五街道を整備。

ポイント3

●築城

・本丸、二の丸、北の丸、西の丸、外濠の石垣工事と大手門・坂下門の築造で江戸城の防御力向上。

 

次回は第2次天下普請になります。

江戸の街作り(第4回):第2次天下普請 1612年〜1615年頃(慶長17年〜20年)

    本記事は江戸の街作り特集の第4回です。第1回からぜひご覧ください! 第2次天下普請 時代背景 将軍:徳川秀忠 時代:1612年〜1615年頃(慶長17年〜20年) &nbs ...

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