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江戸の街作り(第4回):第2次天下普請 1612年〜1615年頃(慶長17年〜20年)

 

 

江戸の街作り:第2次天下普請 1612年〜1615年頃(慶長17年〜20年)の江戸の街の様子

第2次天下普請 1612年〜1615年頃(慶長17年〜20年)

本記事は江戸の街作り特集の第4回です。第1回からぜひご覧ください!

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第2次天下普請 時代背景

将軍:徳川秀忠時代:1612年〜1615年頃(慶長17年〜20年)
 

家康は1605年、わずか2年で将軍職を息子の秀忠に譲りました。徳川氏の将軍世襲を天下に示すためでした。

ただし、その後も伏見城や駿府城を拠点として政治の実権を握り続けました。

大坂城の豊臣家(秀頼)は一大名に転落しましたが、豊臣家を楯に天下泰平を乱そうとする野心を持つ輩が少なくありませんでした。

家康は政権の永続を図るため、秀頼を滅ぼす決意をしたそうです。

寺の梵鐘に難癖をつけて1614年に大坂冬の陣を始めます。

停戦後の翌1615年に大坂夏の陣で秀頼は自害し豊臣家は滅亡しました。

その後将軍秀忠の名をもって武家諸法度を制定しました。

大名の行動を取りしまり、反乱を起こさないようにするための決まりでした。

 

第2次天下普請で行ったこと。

第2次天下普請で行った大きな事は下記の通りです。

  • 資材の大量調達
  • 湾岸地域の土地拡大
  • 江戸城直下の整備

 

資材の大量調達

舟入掘

舟入掘

舟入堀造成前

江戸前島に10本の舟入堀を造成

江戸前島に10本の舟入堀を造成

江戸城の本格的な築城に伴う規模拡大のために大量の石垣が必要となりました。

そのため、この工事用に石船3000艘が建造されて、伊豆半島から石を輸送し、その陸揚げ用に10本の舟入掘と八丁堀舟入を建造しました。

江戸湊から石垣築造の現場までなるべく近寄れる水路と石垣の標準であった「百人持ちの石」(人夫百人で運搬できる石)を陸揚げできる河岸を整備することにありました。

すべてが人力で行われた当時では石垣のような重量があるものは舟の甲板と陸地を水平移動して陸揚げすることがもっとも合理的でした。

そのため、海上に埠頭を設けるよりも、堅固な地盤である江戸前島に舟入掘を掘って水平移動する場を確保しました。

舟が入っていくことになる八丁堀舟入の先端は南北に伸びる堤防があり鉄砲洲と呼ばれ、鉄砲射撃場になっており、外敵に対する防御の意味合いもありました。

湾岸地域の土地拡大

江戸湾岸地域の土地拡大

楓川

楓川は埋め立て前は江戸前島の海岸線で、その海岸線を埋め残して作った水路です。

すでに記載したように石材の陸揚げ施設として楓川と外濠の間に9本の船入掘が開削されました。

三十間堀

三十間堀は楓川と同様に埋め立て前は江戸前島の海岸線で、その海岸線を埋め残して作った水路です。

この沖合に護岸用に石を並べてその東側に埋立地を造成していきました。

この三十間堀と楓川の境には「あさり河岸」があったそうです。

木挽町

現在の歌舞伎座周辺。江戸城構築に従事する木挽の多くが住んだことから木挽町と名付けられました。

八丁堀

舟入掘の長さが約8町(約873m)あったため「八町堀」と呼ばれ、その堀名に由来して町名がつけられました。(後に「町」が略字の「丁」となる。)

楓川の開削の残土や築城工事の余土は楓川の東岸に埋め立てられて八丁堀地区が形成されました。

江戸初期には多くの寺が建立され、寺町となっていましたが、1635年、八丁堀にあった多くの寺は浅草への移転を命じられました。

寺のあった場所は町奉行配下の与力、同心の組屋敷が設置されるようになりました。

江戸末期の地図ですが、与力の屋敷が固まっていることがわかります。

江戸末期の地図ですが、与力の屋敷が固まっていることがわかります。

江戸城直下の整備

江戸城直下の整備

内濠

白線で囲った箇所、現在の名称だと馬場先濠・日比谷濠・凱旋濠・桜田濠が整備されて現在の内濠の原型ができました。

排水の点から日比谷濠から外濠川に抜ける水路も掘られました。(現在は埋め立てられている)

桜田濠は現在の紀尾井町などからの小河川の水を堰き止めて濠としました。

江戸城直下の整備

現在の地図で示すとこんな感じ。黄色線は日比谷濠から外濠に抜ける水路がありましたが、現在は埋め立てられています。

日比谷公園内の心字池は日比谷濠から外濠川に抜ける水路の名残。

日比谷公園内の心字池は日比谷濠から外濠川に抜ける水路の名残。

内濠の石垣と本丸・西の丸の石垣も整備されました。

赤線で示している内濠の石垣と本丸・西の丸の石垣も整備されました。

内濠・馬場先濠の石垣

内濠・馬場先濠の石垣

内濠・日比谷濠

内濠・日比谷濠

内濠・凱旋濠

内濠・凱旋濠

内濠・桜田濠

内濠・桜田濠

 

西の丸下、大名小路

日比谷入江跡を整備し、西の丸下(現在の皇居外苑)、老中・若年寄などの幕閣や有力大名の上屋敷として「大名小路」(現在の大手町・日比谷あたり)が整備されました。

日比谷入江跡を整備し、西の丸下(現在の皇居外苑)、老中・若年寄などの幕閣や有力大名の上屋敷として「大名小路」(現在の大手町・日比谷あたり)が整備されました。

幕末の頃の江戸ですが、西の丸下に大老クラス、大名小路にも各国の大名屋敷が配置されています。

幕末の頃の江戸ですが、西の丸下に大老クラス、大名小路にも各国の大名屋敷が配置されています。

日比谷入江跡を整備し、西の丸下(現在の皇居外苑)、老中・若年寄などの幕閣や有力大名の上屋敷として「大名小路」(現在の大手町・日比谷あたり)が整備されました。現在の衛星画像でみるとこんな感じ。

現在の皇居外苑。とても広い空間。

現在の皇居外苑。とても広い空間。

 

 

まとめ

第2次天下普請のまとめです。

  • 資材の大量調達
  • 湾岸地域の土地拡大
  • 江戸城直下の整備

ポイント1

●資材の大量調達

・江戸城拡大用の大量の石垣を必要とした為、石船3000艘を建造。伊豆半島からの陸揚げ用に10本の舟入掘と八丁堀舟入を建造。

ポイント2

●湾岸地域の土地拡大

・埋立により木挽町、八丁堀が誕生。幕府や工事関係者の住居となる。

ポイント3

●江戸城直下の整備

・内濠とそれに沿う石垣工事が進み、さらなる江戸城防御力の向上と大名達の住居ができた。

 

次回は第3次天下普請になります。

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