1590年頃の江戸。江戸城の目前まで日比谷入江が入り込み、東側には湿地帯、西側には谷に刻まれた台地が広がっていました。
江戸の初めの頃の風景を想像できますか。江戸の初期、今の東京都心は下記のような場所だったのです。
・湿地帯が広がっていた。
・台地と谷で入り組んでいた。
・洪水が多かった。
・水が得にくかった。
生活するには大変だった街だったって信じられますか?
今の東京を見ているととてもそうには思えませんよね。
江戸とはどこ?
江戸は、現在の東京都心部の昔の呼び名です。1590年に徳川家康が入り、1868年に「東京」と改められました。
江戸の範囲は、1818年(文政元年)に幕府が地図に朱色の線で示した「朱引」がひとつの目安で、今の千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区・渋谷区・豊島区・荒川区と、品川区・目黒区・北区・板橋区・練馬区の一部にあたります。
▶ 詳しくは記事後半の「江戸とはどこ?今の東京のどの範囲?」で解説しています。
この特集は8回の記事を通して、「江戸はどのように発展していくのか?」というテーマで主に地形や堀・水路、土木工事などに注目して、
解説していきます。(1590年頃から1636年頃まで)
こんな江戸城が
これだけ立派な城になっていきます。
こんな江戸の町が
これだけ立派な町になっていきます。
立体図
ちょっと強調していますが、江戸が台地と谷で入り組んでいた様子を動画で。西は台地、東は低地だという事がよくわかります。
回転させてみた。
江戸が変わっていく様子
実写風版
イラスト版
江戸城実写版
江戸城 完成イメージ
江戸の街造り特集について
・こんなやっかいな土地をどうのようにして江戸のような都会にしていったのかご説明致します。
・全8回の特集記事になります。
・地図、地形、画像、動画を多く使ってわかりやすくご説明いたします。
第1回:家康江戸入府の頃の江戸の頃(1590年)(本記事)
1590年頃の江戸。江戸城の目前まで日比谷入江が入り込み、東側には湿地帯、西側には谷に刻まれた台地が広がっていました。
第1回:家康江戸入府の頃の記事は、この後で続きます。
第2回:徳川直営の普請(1590年〜1592年頃)
徳川直営の普請により、小名木川と道三堀が開削され、平川の流路変更や千鳥ヶ淵・牛ヶ淵の整備が進められました。
第2回:徳川直営の普請(1590年〜1592年頃) の記事を読む
第3回:第1次天下普請 1606年~1607年頃(慶長11年~12年)
第1次天下普請では日比谷入江の埋立て、外濠川と神田川放水路の整備、日本橋を起点とする街道整備、江戸城の拡張が進みました。
第3回:第1次天下普請 1606年~1607年頃(慶長11年~12年)の記事を読む
第4回:第2次天下普請 1612年~1615年頃(慶長17年~20年)
石材を運ぶ舟入堀が江戸前島に造られ、湾岸の埋立てによって八丁堀や木挽町が誕生。江戸城の内濠と石垣も整備されました。
第4回:第2次天下普請 1612年~1615年頃(慶長17年~20年)の記事を読む
第5回:第3次天下普請 1620年頃(元和6年)
第3次天下普請では平川放水路や日本堤などの治水工事が進み、洪水から江戸市街を守る仕組みと江戸城の防御が強化されました。
第5回:第3次天下普請 1620年頃(元和6年)の記事を読む
第6回:第4次天下普請 1628年~1635年頃(寛永5年~12年)
第4次天下普請では内濠・外濠に多くの城門と石垣が築かれ、本丸と二の丸の改修によって江戸城の防御力が高められました。
第6回:第4次天下普請 1628年~1635年頃(寛永5年~12年)の記事を読む
第7回:第5次天下普請 1636年頃(寛永13年)
1636年頃、溜池から神田川まで外濠がつながり、江戸城と城下町を囲む総構えが完成。江戸湊でも埋立てと宅地化が進みました。
第7回:第5次天下普請 1636年頃(寛永13年)の記事を読む
第8回:江戸の街作り・まとめ
それでは江戸の街作り第1回を始めましょう。
江戸の街作り(第1回) 家康江戸入府の頃の江戸の頃(1590年)
低地はどうなっていた?
徳川家康が江戸に来る前は、こんな感じに葦が生い茂り、、、
低地には湿地帯が広がっていた。
洪水がおこると低地は浸水し、今の隅田川や荒川あたりの河口では氾濫していました。
台地はどうなっていた?
武蔵野台地の上には雑木林が生い茂り、台地と台地の間にはたくさんの川が流れていました。
台地と低地の境目がとってもわかりやすいですよね。
今の東京は?
この繁栄ぶりを見ると、江戸がかつて湿地帯で葦だらけ、頻繁に洪水に悩まされていた街とは思えませんよね。 この繁栄は江戸の頃の治水工事、土木工事が大変大きいものになっています。
今の東京の風景を作っているのは江戸のおかげなのです。 江戸の街づくりは驚くほどの時間をかけて築いたものでした。東京の街並みはいたるところにこの江戸の頃の資産を活用しています。
これは徳川幕府とその幕臣、そして全国の大名とその臣下達の苦労のおかげなのです。 普通にその街並みの中で過ごしていると低地や台地を感じることも少ないと思います。
株式会社ジェオ 「幕末の大江戸図」
幕末の江戸の様子です。世界でも有数の大都市に発展することになります。
この東京の原型を造った江戸の街はどのようにしてできていったのか、時間を追ってみてみましょう。
東京・江戸の地形について
まずは東京の地形をみていきましょう。
地形図
そして東の低地にはいくつかの大河が流れ込んでいて、洪水や氾濫を繰り返していました。 江戸の街はこの台地と低地をうまく開発してできた街なのです。それが今の東京へと引き継がれています。
高さは5倍に強調
少し立体的にしたものです。武蔵野台地が台地と谷に刻まれているのがわかります。これは川の侵食や海の波による侵食です。
国土地理院・地理院地図で地形を確認してみる
| 地形分類 | 地図色 | 成り立ち |
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台地・段丘 |
橙 色 | 周囲より階段状に高くなった平坦な土地。周囲が侵食により削られて取り残されてできる。 |
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砂州・砂丘 |
薄 黄 色 | 主に現在や昔の海岸・湖岸・河岸沿いにあり、周囲よりわずかに高い土地。波によって打ち上げられた砂や礫、風によって運ばれた砂が堆積することでできる。 |
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氾濫平野 |
黄 緑 | 起伏が小さく、低くて平坦な土地。洪水で運ばれた砂や泥などが河川周辺に堆積したり、過去の海底が干上がったりしてできる。 |
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水部 |
水 部 | 調査時において、海や湖沼、河川などの水面である場所。 |
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崖・段丘蓋 |
紫 | 地の縁にある極めて急な斜面や、山地や海岸沿いなどの岩場。 |
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旧水部 |
灰 色 | 江戸時代もしくは明治期から調査時までの間に海や湖、池・貯水池であり、過去の地形図などから水部であったと確認できる土地。その後の土砂の堆積や土木工事により陸地になったところ。 |
これを見てもわかるように東京(江戸)都心部は氾濫平野や水部、砂州などの低地と台地で構成されていることがわかります。
次に江戸の歴史を振り返ってみましょう。徳川家康が江戸に来る前は太田道灌が江戸城を築いていました。
家康が江戸へ入府した頃の地形
TOPのイラストをもう少し、詳細な地形で表したものです。
家康の江戸入府・歴史的背景
江戸時代の前の江戸は?
江戸時代の前(室町時代〜戦国時代)、江戸は1457年に太田道灌が江戸城を築いた城下の小さな町でした。道灌の死後は上杉氏、1524年からは小田原の北条氏が治め、1590年に北条氏が滅びると徳川家康が入りました。
そのころの江戸城のすぐ前には日比谷入江の海が入り込み、周りには湿地帯が広がっていました。
太田道灌
東京国際フォーラム:太田道灌像
太田道灌(おおたどうかん、1432年-1486年)は室町時代中期の武将。30数回戦って負けなしという名将でした。
関東管領上杉氏の一族で、 扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰である太田資清(道真)の子として相模で生まれたとされるが詳細については諸説があり定かではありません。
父資清を継いで扇谷上杉家の家宰となり江戸城 を最初に築城したことで知られ、最後は主君に謀殺されるという、戦国の世をかけ抜けた悲劇の武将でもあります。
鎌倉五山や足利学校(栃木県足利市)で学んだ後、品川湊近くに居館を構え(現在の御殿山あたり)、 ここでの通商を押さえて力を蓄えました。
父資清を継いで扇谷上杉家の家宰となり江戸城 を最初に築城したことで知られ、最後は主君に謀殺されるという、戦国の世をかけ抜けた悲劇の武将でもありました。
北条氏康
戦国の世にあって人心の風情を知る人柄や、下克上の世の中ゆえの非業の死から、太田道灌を偲ぶ人は多いそうです。
道灌暗殺後、伊豆にいた北条早雲が関東に進出し、その後裔である北条氏康に上杉家は関東を追われてしまいました。
その後、天下の実権を握りつつあった豊臣秀吉が北条氏と真田氏との領土紛争をきっかけに「小田原征伐」に打って出て、22万を数える豊臣軍の前に北条氏は降伏。
北条家は滅亡し豊臣秀吉が天下統一を果たしました。
徳川家康の江戸入府の歴史
| 天下人:豊臣秀吉 | 時代:1590年(天正18年)頃 |
|
豊臣秀吉は織田信長の天下統一事業を引き継いで瞬く間に勢力を広げていき、「もはや豊臣の世」と社会は認識していました。 家康は有力な一大名でありましたが、結局は豊臣家の家臣としてその傘下に入ることになり、天下統一事業を助けました。 1590年に豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻略し、天下の統一を果たしました。 |
小田原征伐
1590年(天正18年)の小田原征伐。豊臣秀吉の大軍が北条氏の本拠・小田原城を包囲した様子を描いた想像復元図です。
領地替え
豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻略し、天下の統一を果たした後、論功行賞と諸大名の再配置を行いました。
徳川家康は領地替えを命じられ、旧領の三河・遠江・駿河・信濃・甲斐を手放し、
関八州(伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野)を与えられるのです。
家康江戸入り
関東平野のほとんどですね。
冒頭でも述べたように当時の江戸は整った街ではなく、葦が生え湿地帯と台地で構成された土地でした。
家康が北条が造った小田原に居をかまえず、なぜ江戸にしたのか。
江戸が発展する土地だという江戸のポテンシャルを家康は見抜いたと言われています。
徳川家康は豊臣秀吉が亡くなるとさらにその工事スピードを上げていきます。
集中的に大規模公共工事を進めました。これを天下普請といいます。
家康は1616年に逝去しますが、二代・秀忠、三代・家光の頃までこの天下普請は続けられました。
1582年に家康が工事に着手して以来、半世紀を超えて江戸城は完成するのです。
天下普請は幕府に命じられた大名がそれぞれ請け負っています。
それでは次に家康が江戸に入る前の地形ををみてみましょう。
家康入府当時の江戸城はどのような姿だったのか
江戸城原型
1590年頃、徳川家康が入府した当時の江戸城をイメージした想像復元図。
天正18年(1590年)の徳川家康入府当時の江戸城は、石垣がなく周囲を芝土居(土塁)で囲まれた非常に簡素で荒れ果てた姿でした。城内の建物も雨漏りするような山里の板葺きの田舎屋にすぎず、城の目前には日比谷入江や平川などの海・河川・低湿地が広がる原地形の中に位置していました。家康はまず応急の修繕から着手し、ここを拠点に巨大都市江戸の建設に向けた計画を進めていきました。
大規模な天下普請が行われる前の、土塁と曲輪を中心とした城の姿を描いています。
家康江戸入府の頃の江戸の地形(1590年)
特徴
・日比谷入江(遠浅の海が)現在の大手町付近まできていた。
・江戸前島という半島がある。
・平川が日比谷入江にそそいでいた。
・江戸湊に旧石神井川、入間川(隅田川)がそそいでいた。
・小河川が江戸城本丸の西側の台地の谷に流れていた。
・自然堤防が入間川(隅田川)沿いあり、浅草寺があった。
・大きな池が低地の湿地帯に広がっていた。
特徴1日比谷入江
なかなか信じ難い感じではありますが、上図の青枠部分、今の皇居外苑・丸の内・日比谷公園あたりは遠浅の海でした。
現在のJR浜松町駅の辺りから皇居東御苑の大手門・大手濠周辺までのおおよそ奥行きが4km、平均幅400mの規模でした。
特徴2江戸前島
江戸前島は砂州でできた半島になっています。日比谷入江と江戸湊に挟まれた微高地になっていました。
上図の黄色箇所、有楽町駅周辺、銀座(西部)、京橋や日本橋などまさに現在の経済の中心地がこの江戸前島にありました。 日比谷入江の東側の台地が削られて微高地になりました。
地形図の下半分の黄色の枠線部分が江戸前島です。わかりにくいですが、周りより若干標高が高い事が読み取れます。
武蔵野台地の東端である「霞ヶ関」周辺から東銀座あたりまでの断面図をみてみましょう。
このように「江戸前島」が微高地だったことが読み取れると思います。 この江戸前島からは「有楽町1丁目遺跡」が発見されており、江戸の頃より前の遺跡として室町時代の人骨などが発見されたそうです。
数寄屋橋の交差点から日比谷公園方面に向かっても起伏を感じることができないくらいの微高地ですね。
特徴3平川
平川は江戸城直下の東側に河口があった川でした。現在の日本橋川、神田川の原型となっていた川です。
家康入府の頃は「井の頭池」「善福寺池」「妙正寺池」を主に水源とする流れが合流して現在の飯田橋から九段下を経て、小石川も合流し大手町あたりで日比谷入江に注いでいました。
江戸城にある平川濠・平川門はその名残です。
この平川の治水が江戸幕府の大きな仕事でした。
緑色で示したように当時の平川はこんな感じで日比谷入入江に注いでいたんでしょう。
少し話が横にそれますが、現在の日本橋川(平川)は赤い線で示したように水道橋の西から神田川と別れ南下して隅田川に注いでいます。
この地図の日本橋川に違和感を覚えた方は正解です。
現在の日本橋川はそのほとんどを首都高速に覆われています。昭和の東京オリンピック(昭和38年)を前に、首都高建設を急ぎ、土地収用が必要ない河川の上を通すのが手っ取り早かったのです。
その結果、この高速下には「一ツ橋門」「神田橋門」などの門跡や外濠の石垣などが残っていますが、その遺構が目立つことなく存在し高架の影響なのかとても暗く感じます。
もちろんこの川沿いには江戸の商業の中心である日本橋もありました。 現在、日本橋に空を戻すプロジェクトがたちあがっていて、2040年には首都高速が地下化されます。
ぜひ、明るい日本橋川を見てみたいものです。
特徴4江戸湊
江戸湊
低地を流れる川の入間川(隅田川)や旧石神井川の河口の先には江戸湊が拡がっていました。
そもそも湊という言葉には
「川がその支流をあつめて大河となり、河口から海に流れて散っていく有様を著した文字」
という意味が含まれているそうです。
集中と分散の場という、これからの江戸が大都市に発展していくための水運などの都市機能をうまく表しているように思えます。
入間川(隅田川)
その江戸湊には入間川(現在の隅田川)が注いでいました。
隅田川は古い時代には入間川と呼ばれ、浅草あたりでは「浅草川」、千住大橋あたりでは「千住川」、駒形あたりを「宮戸川」、両国橋から海までは「大川」と呼ばれていました。
一本の川をこのように上流から下流にかけて分割して呼称を変えることは南関東ではよくあったそうです。
隅田川は「武蔵国」と「下総国」との国境でした。「両国橋」の両国は武蔵と下総を指しています。
これから発展していく江戸において隅田川は利根川流域を始めとする水運が可能な多くの河川の流域を一つの経済圏に結びつける役割を果たしました。
河口部の江戸湊は大坂(上方)から、一大消費地である江戸へ商品をはこぶ「菱垣廻船」、「樽廻船」や太平洋沿岸沿いの航路をとって江戸へ回航する「東廻航路」など、遠方経済圏と交流する基地の役割も果たしました。
隅田川を中心に、平川・神田川・小名木川・竪川・中川などの多くの水路と舟運が発達し、その両岸には河岸が成立して商業地を発展させました。
旧石神井川・谷田川
旧石神井川・谷田川は王子の飛鳥山付近から上野台地と本郷台地の間を流れて不忍池にそそぎ込んでいました。
不忍池に注いだ部分が谷田川と呼ばれていました。不忍池からは今の湯島駅(東京メトロ)から筋違橋門(江戸城三十六見附)あたりから川筋を変え、昭和通りを流れて江戸湊に注いでいました。
旧石神井川河口は現在の江戸橋あたりになります。
特徴5小河川
下記のような河川が複雑な谷の間を通っていました。
赤坂川・太刀洗川
赤坂川は現在の四谷の須賀町、JR信濃町付近を源流とする小河川が合流し、現在の虎ノ門付近で日比谷入江に注いでいました。太刀洗川は現在の赤坂氷川神社あたりを水源として赤坂川に合流していました。
この両河川は溜池を造ることになった水流となる川です。
紅葉川
現在の曙橋駅近辺のあけぼの橋通り商店街の北側の源流と、東京医科大学付近の禿坂を源流としています。二つの川は市ヶ谷を通り、飯田橋付近で平川に合流していたと思われます。
千鳥ヶ淵川(局沢川)
本の河川が合流して、現在の乾門→蓮池濠→蛤濠→坂下門→桔梗濠あたりを流れて日比谷入江に注いでいました。この川筋は家康入府までは「局沢十六寺」と呼ばれる寺院地帯を形成していました。
この頃にはまだダムとしての千鳥ヶ淵はできていません。
桜田濠水系
現在の半蔵門あたりの谷からと紀尾井町東端からの水源が三宅坂あたりで合流しに日比谷入江に注いでいました。この頃にはまだ濠としての桜田濠はできていません。
小石川・谷端川
現在はほとんど名残がないこの両川は途中で合流した上で、JR水道橋付近を経て平川に合流していました。
音羽川・弦巻川
音羽川は現在の護国寺の前からまっすぐに伸びる音羽通りの東側を流れていました。弦巻川はその西側を流れていました。
この二つの小川は江戸の頃、「紙すき(製紙)」で知られていました。
特徴6自然堤防
地図右上の黄色部分が、周りより若干標高が高い事が読み取れます。入間川(隅田川)右岸は微高地になっていました。
微高地をつくったのは
・入間川が運んできた土砂で自然堤防が作られたこと
・台地が波で削り取られ残されたもの
・河口部の砂州
この3つで微高地が作られています。
自然堤防とは河川が運んできた土砂が沈殿し、堆積した場所のことです。洪水が繰り返されたことを物語っています。
この微高地にあるのが浅草寺です。東京都内最古の寺院と言われているように創建は645年です。
こんなに昔から存在するのは、周りが湿地帯でもこの一帯は安定した土地だったのでしょう。
家康は江戸入府前に先に見た浅草寺を幕府の祈願所と定めています。
特徴7大きな池
低地の湿地帯には大きな池が広がっていました。
白鳥池
現在の飯田橋駅の北方から江戸川橋駅付近に広がっていた池です。江戸よりもっと昔、縄文海進と呼ばれる時期は入江がもっと内陸まで入り込んでいました。
その入江の一部が海岸線の後退により取り残された名残ではないかとも言われています。
国土地理院の地形図の説明をみても白鳥池周辺は
水部 → 海や湖沼、河川などの水面である場所。
とあるように池だか湿地だかわかないような土地だったのではないでしょうか。
千束池
現在の入谷・竜泉寺・千束一帯に「千束池」が広がっていました。
右岸の千束四丁目には吉原遊廓ができることになります。
お玉ヶ池
現在の岩本町2丁目から鍛治橋2丁目あたりにありました。池のほとりにたくさんの桜の木があったので「桜が池」とも呼ばれたそうです。
江戸名所図会にはお玉という美女が二人の男性から同時に求愛を受け、身投げをしたという話が伝えられています。
不忍池
現在も上野の地に残る不忍池。この池も先述の白鳥池と同じく、海岸線の後退により取り残された名残と考えられています。
後に徳川の菩提寺となる寛永寺が建立されます。開祖の天海僧正が不忍池を琵琶湖に見立て、琵琶湖の竹生島・宝厳寺に倣って弁天島(中之島)を築かせ辯天堂を築きました。
江戸とはどこ?今の東京のどの範囲?
「江戸」は今の東京都心部の昔の呼び名です。1868年に「東京」と改められるまで、この地は江戸と呼ばれていました。
ただ、江戸の範囲は時代とともに広がり、はっきりした境界がない時期が長く続きました。そこで幕府は1818年(文政元年)、地図に朱色の線を引いて江戸の範囲を正式に示しました。これが「朱引」です。あわせて黒い線の「墨引」で、町奉行所が取り締まる範囲も示しています。
旧江戸朱引内図(東京都公文書館所蔵)。朱線(朱引)が江戸の範囲、黒線(墨引)が町奉行所の支配範囲です。
朱引の内側(江戸)は今のどこ?
・千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区・渋谷区・豊島区・荒川区
・品川区・目黒区・北区・板橋区・練馬区の一部
おおよその境界は、東が中川、西が神田上水、南が目黒川のあたり、北が荒川・石神井川の下流です。(参考:東京都公文書館の解説「江戸の範囲」)
この記事で見てきた1590年の江戸は、その中心部、今の千代田区・中央区のあたりにすぎませんでした。湿地帯と入江に囲まれた小さな城下町が、約230年かけてここまで広がったのです。第2回からは、その広がっていく過程を工事ごとに追っていきます。
まとめ
もう一度まとめると
特徴
・日比谷入江(遠浅の海が)現在の大手町付近まできていた。
・江戸前島という半島がある。
・平川が日比谷入江にそそいでいた。
・江戸湊に旧石神井川、入間川(隅田川)がにそそいでいた。
・小河川が江戸城本丸の西側の台地の谷に流れていた。
・自然堤防が入間川(隅田川)沿いあり、浅草寺があった。
・大きな池が低地の湿地帯に広がっていた。
こうして見てみると多くが水に関わる特徴があります。
江戸の街は治水が重要なポイントで水を制御しながら、低地と台地の高低差を利用したりして大きく街を発展させていくことになります。
では次回以降で江戸をどのように都市化していったのかみてみましょう。
参考文献
本記事を作成するにあたり、参考とした書籍・地図です。
・「江戸と東京の川と水辺の事典」 鈴木理生 著
・「江戸・東京の地理と地名」 鈴木理生 著
・「江戸の町(上)」 内藤昌 著
・「水が教えてくれる東京の微地形の秘密」 内田宗治 著
・「川の地図事典」 菅原健二 著
・「知る・見る・歩く! 江戸城」 加藤理文 著
・「幻の江戸100年」 鈴木理生 著
・「都市計画家 徳川家康」 谷口榮 著
・「日本史の謎は地形で解ける」 竹村公太郎 著
・「江戸城と大奥」 小学館
・「幕末の大江戸図」 株式会社ジェオ
特集「江戸の街作り」全8回の目次
江戸の街作り(第1回)を動画で復習してみる
江戸の街づくり(第1回)の概要を動画で解説しています。よかったらご覧ください。
おまけ
江戸城の現在、皇居の外濠・内濠を空からバーチャル体験した動画です。濠や門の写真付きでご覧頂けます。
突然未来に飛んでしまい、恐縮ですが(笑)。