東京と近郊の自然・花・公園・庭園・寺社仏閣・お屋敷・絶景・穴場スポットなどをご紹介します。歴史や地形などの視点も絡めています。

江戸の街作り(第8回):江戸の完成

完成した江戸城の再現イメージ。天守と本丸を石垣と濠が幾重にも囲み、遠くに富士山が見える

第8回のポイント

・3代将軍家光の時代、第5次天下普請(1636年)で江戸城と江戸の街は一旦の完成を迎えました。

・大名庭園や芝居などの江戸文化が花開き、1657年(明暦3年)の明暦の大火で街は大きく作り変えられます。

・全8回の総まとめと、「4代目天守ができていたら」という想像もお届けします。

特集「江戸の街作り」全8回の第8回です。▶ 全回の目次へ

江戸ができるまで実写版。

第1回でも記載しましたが、江戸の町ができるまでを実もう一度。

 

江戸の完成

夕日に照らされた完成期の江戸の鳥瞰イメージ。水路が町を網の目のように巡る

3代将軍・徳川家光のもとで実施された第五次天下普請(外郭工事)によって、江戸城はその外郭線を含めた巨大な城郭として一旦の完成を迎えました。

寛永期の江戸城本丸を南東の上空から見た復元イメージ。段状の石垣と白壁の櫓、御殿の屋根が並び、奥に緑の銅瓦の五重天守がそびえる

寛永期(1630年代後半)の江戸城本丸と天守の復元イメージ

 

1. 空前のスケールで行われた第五次天下普請

この外郭工事には、石垣方62家・掘り方58家の計120家におよぶ全国の大名が動員されました。加賀藩の前田利常が一組を単独で引き受けるなど、幕府の強力な統制のもと空前の規模で工事が進められました。

2. 外濠の掘削と枡形門の設置

外濠の整備:麹町台地西側の自然の谷筋を利用し、四谷から市ヶ谷・飯田橋を経て神田川へと至る広大な外濠が掘削・整形されました。
城門(枡形門)の完成:四谷門、市ヶ谷門、牛込門、小石川門、筋違橋門、常磐橋門、呉服橋門、鍛冶橋門、虎ノ門、赤坂門、外桜田門など、防衛拠点となる重厚な「枡形門」が各要所に築かれました。

3. 総構えの確立と大城郭の全貌

本丸・二丸・三丸・西丸・北丸・吹上といった内郭構造に加え、周囲を巡る外濠と数々の重厚な城門によって外郭線(総構え)が確定しました。これにより、現在の千代田区・中央区の大部分に相当する総面積約20平方キロメートルにおよぶ日本最大の城郭としての全貌が完成を見ました。

総構えが確立した江戸城と城下町の鳥瞰イメージ

天正18年(1590年)の徳川家康の江戸入りから約46年、何段階にも及ぶ天下普請と土木工事を経て、江戸城は都市・江戸を守る鉄壁の防衛線と将軍家の権威を誇るシンボルとして結実しました。

 

街並みの発展

碁盤の目状に整えられた江戸の町人地と水路の鳥瞰イメージ

江戸の町人地では、旧メインストリートの本町通りと日本橋を起点とする通り町筋が交差する日本橋・神田・京橋地区を中心に整然とした商人町が形成され、自然流下による排水の勾配を一寸単位で確保するために幹線道路をあえて屈折させる高度な水利・都市計画技術が用いられていました。

 

港が整備され、廻船が行き交う江戸の沿岸部のイメージ

沿岸部には港湾インフラが整備され、日本橋川沿いの魚河岸をはじめとする各種の問屋街や市場には、太平洋航路や内陸河川舟運を通じて上方からの「下り物」や関東各地からの「地廻り物」が集散していました。

さらに、神田川の上空を跨ぐ懸樋(水道橋)によって市中に清冽な飲料水を送る神田上水のインフラや、浅草寺や山王社などの信仰・行楽の拠点、品川・板橋・千住・内藤新宿の「江戸四宿」を結ぶ陸上交通網も整い、全国の人々や物資が行き交う日本最大の消費・商業都市としての賑わいが確立していました。

 

大名庭園

池と築山のある大名庭園の鳥瞰イメージ

参勤交代の定着に伴い、外濠の外側や郊外に広大な下屋敷が置かれると、そこには別荘や保養所として大がかりな「大名庭園」が相次いで築かれました。これらの庭園は、日常生活の場である上屋敷を補う避難所や保養地として機能するだけでなく、将軍を迎える「御成(おなり)」をはじめとする社交や自藩の威信を示す舞台としても活用されました。園内には大きな池や橋、建物が緻密に配置され、武家文化と豊かな水利・造園技術が融合した江戸独自の庭園美を形作っていました。

 

江戸文化の発展

日本橋の魚河岸や船入堀を拠点に全国の物資が集まる商人町の経済的繁栄を背景に、中村座をはじめとする「江戸四座」の歌舞伎や吉原遊郭といった大衆娯楽、旗本奴・町奴などの「かぶき者」の流行、さらに浅草寺参詣や山王祭をはじめとする行楽文化が発展し、町人の活気と経済力に支えられた独自の江戸文化が開花しました。

芝居

芝居小屋で歌舞伎を楽しむ江戸の人々のイメージ

江戸の芝居は、当初中橋先の海岸で軽業や人形芝居が興行されていたことに始まりますが、中村勘三郎が開いた中村座が江戸中で大きな話題を呼び、江戸歌舞伎が盛んになりました。

 

遊郭

提灯が灯る吉原の夜の通りのイメージ

江戸における幕府公認の遊郭である吉原は、北隣の祢宜町や西隣の堺町に芝居小屋(中村座や市村座)が置かれるなど、都市の賑わいや芸能文化と地理的・文化的に深く隣接して発展しました。

かぶき者

町中で刀を振るって暴れるかぶき者たちのイメージ

三代将軍・徳川家光の時代に平和な社会秩序が整うと、戦国時代のような武士の誇りが意味を失い、生きる目的を見失った若い武士たちが徒党を組んで喧嘩を売る「旗本奴」が現れ、それを真似る「町奴」と呼ばれる若者たちも登場しました。

 

明暦の大火

明暦の大火で燃え上がる江戸の町と、逃げ惑う人々のイメージ

第五次天下普請によって外濠や数々の枡形門群が完成し、総構えが確立したことで、江戸城と城下町は総面積約20平方キロメートルに及ぶ大城郭都市として一旦の完成を迎えました。将軍家の権威を象徴する鉄壁の防衛線と政治・経済の拠点が完備されました。

明暦の大火で炎に包まれる江戸城天守のイメージ

しかし、この完成からわずか20年足らずの明暦3年(1657年)正月、江戸の街を巨大な悲劇が襲います。突如発生した「明暦の大火」は猛烈な風に乗って市中を呑み込み、西丸を除く江戸城の本丸御殿や天守閣を全焼させただけでなく、格式高い大名屋敷、立ち並ぶ寺院、そして日本橋をはじめとする商人町の大半を焼き尽くし、城下町は壊滅的な被害を受けました。

大火後、幕府は保科正之らの提言により天守の再建を断念し、被災した町人や大名への援助金を支給するとともに、過密化の防止と防災体制の強化に向けた大規模な都市再編に乗り出しました。

 

おまけ

4代目天守ができていたら。

明暦の大火によって、黒漆喰と銅板葺の巨大な第3代(寛永度)天守は焼失しました。
大火後、加賀藩前田家らによって御影石の天守台(現在の皇居東御苑に残る天守台)が新たに積み上げられたものの、4代将軍・家綱の叔父である保科正之らが「天守は実用をなさない軍事的な遺物であり、城下の復興と民民の救済に資金を優先すべき」と提言したため、天守閣の再建は見送られました。

再建されなかった4代目天守が建っていたらという想像図

天守閣そのものは建てられませんでしたが、加賀藩前田家らによって新たに築かれた天守台(石垣)が現在も皇居東御苑に残されています。

現在の江戸城天守台(皇居東御苑)現在の江戸城天守台の石垣
切込みハギで隙間なく積まれた天守台の石垣(近景)天守台の石垣の隅の部分
横から見た天守台の石垣見上げた天守台の石垣

強固な造りで切込みハギと呼ばれる精密な技法で、美しい御影石(花崗岩)が整然と積み上げられています。 堂々たる規模:高さ約6メートル、底辺約41メートル×38メートルの規模を誇り、上に巨大な天守が載ることを想定して築かれました。

 

江戸の街作り(第8回)を動画で復習してみる

江戸の街づくり(第8回)の概要を動画で解説しています。よかったらご覧ください。

最後に

さて8回にわたって江戸の街づくりを巡ってきましたが、いかがだったでしょうか。

明暦の大火という未曾有の災禍を乗り越えた江戸は、本所・深川や築地などへの領域拡大と防火都市への再編を経て、さらに巨大で成熟した大都市「大江戸」へと発展を遂げていくことになります。

しかし、徳川家康の入国から都市骨格の完成、そして大火による大きな転換点に至る初期江戸の歩みをたどってきた本記事は、ひとまずここで終了といたします。

拙い文章なのに最後まで読んでくださった方には感謝しかありません。

徳川3代にわたって行ってきた天下普請。

今の東京に繋がる都会が江戸の街にできあがりました。

江戸の天下普請 一覧(徳川直営の普請〜第5次)

全8回でたどってきた江戸の街作りを、工事ごとにまとめると次のようになります。

工事時期主な工事記事
徳川直営の普請1590〜1592年頃道三堀・小名木川の開削、平川の付け替え第2回
第1次天下普請1606〜1607年(慶長11〜12年)日比谷入江の埋め立て、日本橋と五街道、江戸城本丸・初代天守第3回
第2次天下普請1612〜1615年(慶長17〜20年)江戸前島の舟入堀、八丁堀・木挽町の造成、内濠の石垣第4回
第3次天下普請1620年頃(元和6年)平川放水路(のちの神田川)、日本堤などの治水第5回
第4次天下普請1628〜1635年(寛永5〜12年)城門(見附)と石垣の整備、本丸・二の丸の改修第6回
第5次天下普請1636年(寛永13年)外濠の完成、江戸城の総構え第7回

冒頭で取り上げましたが

「江戸の街は治水が重要なポイントで水を制御しながら、低地と台地の高低差を利用したりして大きく街を発展させていくことになります。」

と書かさせて頂きました。

平川を制し、飲料水を確保し、神田川を造り、外濠を造り、内濠を造り、、、と水を制することにより、

土地を拡大し、増え続ける人口を吸収し、江戸の街が発展していくのです。

幕末の江戸の町並み(株式会社ジェオ「幕末の大江戸図」)。江戸城を中心に堀と武家地、町人地が広がる

株式会社ジェオ 「幕末の大江戸図」

本特集では記事にできませんでたが、大きな治水工事としては

・利根川東遷、荒川西遷

・玉川上水

なんて工事もあります。いずれ記事にできたらいいなと思っています。

その後も街は発展をしていきます。

・水路は発展し、竜閑川、新川、竪川が造成されました。

・八丁堀の南側の埋立も進んで、現在の築地や浜離宮ができています。それに伴い芝口門、芝大手門も築造。

現在の東京の原型ができあがりました。

現代においては、当時の水路や濠はかなり埋め立てられたり、暗礁化されたりで水の存在を多く感じ取ることはできません。

しかし元々この街はベネチアに負けない水の都だったのです。

第1回の記事でも述べましたが、日本橋川(平川)に空を戻すプロジェクトも始まり、新たな街づくりが始まっています。

これからも東京は発展していくのでしょう。そこに水の存在を思い出し、新たな未来が水の街・東京となったらこれほど嬉しいことはありません。

 

参考文献

本記事を作成するにあたり、参考とした書籍・地図です。

・「江戸と東京の川と水辺の事典」 鈴木理生 著

・「江戸・東京の地理と地名」 鈴木理生 著

・「江戸の町(上)」 内藤昌 著

・「水が教えてくれる東京の微地形の秘密」 内田宗治 著

・「川の地図事典」 菅原健二 著

・「知る・見る・歩く! 江戸城」加藤理文 著

・「幻の江戸100年」 鈴木理生 著

・「都市計画家 徳川家康」  谷口榮 著

・「日本史の謎は地形で解ける」竹村公太郎 著

・「江戸城と大奥」小学館

・「幕末の大江戸図」株式会社ジェオ