目次
- 東叡山寛永寺の概要と歴史
- 東叡山寛永寺の全体図(鳥瞰図)
- 東叡山寛永寺の江戸時代の地図
- 東叡山寛永寺の地形
- 東叡山寛永寺の見どころ
- 東叡山寛永寺の御朱印
- 東叡山寛永寺 おすすめの本
- 東叡山寛永寺の周辺情報
- 東叡山寛永寺へのアクセス
東叡山寛永寺の概要と歴史
東叡山寛永寺は寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立されました。
西の比叡山に対し、東国の天台宗の拠点ということで東叡山と名付けらました。
徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍が帰依していた天海は、江戸城の鬼門の方角と考え、そのことを知った秀忠は、元和8年(1622年)、現在の上野公園の地を天海に与えました。
当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信枚、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公して寺地としたのです。
寛永寺の中心となる堂宇が元禄11年(1698年)建立の根本中堂です。往時には今の上野公園の大噴水の地に建っていましたが、幕末の上野戦争で焼失。現在地に移転再建されています。
寛永2年(1625年)、寛永寺の創建時に建立されたのは、本坊(貫主の住坊)で、これは現在の東京国立博物館の地です。
寛永4年(1627年)に、法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮、寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立され、最後に建立されたのが元禄11年(1698年)の根本中堂です。
天海は、京都・清水寺の舞台を模した清水観音堂、方広寺の京都大仏をモチーフとした上野大仏などを建立。不忍池を琵琶湖、小さな島を弁才天堂で知られる竹生島(ちくぶしま)に見立て、不忍池弁天堂も造営しました。
さらに境内には、奈良・吉野山の桜を筆頭に四季折々の花を移植する。その結果、上野の山は行楽地として1年中にぎわい、江戸における花見文化の始まりの地にもなりました。
また、寛永寺は徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。
寛永寺では第三代以降幕末まで歴代の住職に法親王が「輪王寺宮」の称号で就任しています。東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで朝廷との繋がりが深くなりました。
輪王寺宮は家康をまつる日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となり宗教界で強大な力を誇りました。
こんな寛永寺も幕末の動乱にまきこまれました。幕末に蟄居した最後の将軍・徳川慶喜は、大慈院の葵の間で暮らしました。
慶應4(1868)年、旧幕臣や一橋家の家臣などが結成した彰義隊が寛永寺一帯にたてこもり官軍との戦場となりました。
輪王寺宮(北白川宮能久親王)は官軍からの降伏に応じなかった為、官軍との上野戦争が始まります。結果、官軍の圧倒的火力の前に伽藍の大部分が灰燼に帰しました。輪王寺宮は谷中の方角から落ち延びました。
明治に入り、一時はほとんど消滅状態となったが、1875(明治8)年から再興が始まりました。それを助けたのは、慶喜の家臣だった実業家・渋沢栄一を中心に、旧幕臣や渋沢の盟友だった大倉財閥・大倉喜八郎、そして徳川宗家でした。
1879(明治12)年、寛永寺子院・大慈院の土地に、川越の喜多院から本地堂の建物を移築して根本中堂としました。上野公園のほとんどの敷地が境内だった往時の寛永寺は、子院のひとつ、大慈院の敷地というほどに狭められています。
東叡山寛永寺の全体図(鳥瞰図)
3D衛星画像(クリックで拡大)
東叡山寛永寺の江戸時代地図